奥手な自分…
投稿日 | : 2017/01/29 12:32 |
投稿者 | : ももこ |
今日の運勢 2025年運勢
Re(No.1) | |
投稿日 | : 2017/01/31 21:02 |
投稿者 | : アインス |
こんばんは。
「何もしないのがベストか」。
このご質問に関して私自身はベストな選択だと思います。今までこれといった親密なお付き合いもなく、ちょっとした面識がある程度の相手。袖触れ合も、とは言えその関係性は率直に希薄です。大学時代の淡い感覚、記憶の中に留まりどうかするとすっかり忘却の彼方に追いやられていた。そしてある日の事、とある「切っ掛け」によって再会を果たすも、相手を見定める焦点はどちらかと言えばぼんやりとした幻影にも近い。
当時を振り返るに深い後悔も感傷も、ももこさんの心中には取り敢えず見当たらない。そんな経緯、意識がももこさんの文面から感じ取られます。故にこのまま仮に“フェードアウト”に決め込んだところで、然したる傷心もない。何れももこさんのこれからの社会生活、日常の中になし崩しに埋もれていき、二度と掘り起こされる事もない(でしょう)。「思い出」と言うにはちょっと瞬間的な、刹那の交錯です。
「あの日あの時あの場所」で果たした出会い。如何にもロマンチックでドラマのような運命的な巡り合い。男性であれ女性であれ某か憧れ求めるものです。しかし現実は、現実に生きる人々に夫々の価値観や都合に合わせた物語を逐一用意する気の利いた真似など決してせず、ただ、それこそ淡々と時を刻み重ねていく。
とても殺伐とした、しかも私が殊更言うまでもなく確かにある淡泊なありのままの現実。けれども人は人との繋がりを求め、その繋がり、関係に意味を求める存在でもあります。絆、縁。何れも「意味のある連なり」であり繋がりです。
「切っ掛け」、はそもそも相手の方の「目線」に端を発している。目線、もまた人の行動様式にたいする意味付けとしての表現ですね。相手の方の、もももこさんに向けた「目線」には某かの理由があり、少なくともももこさんにとって相手の方との「接触」に連なった。それは所謂“アイコンタクト”にも見えます。“非言語コミュニケーション”の基本と言われるアイコンタクト。逆に言えば人はふいに「目が合うと」合った相手にたいして、全くの初対面の他人でさえ、意識し、思わず狼狽し動揺する。「慌てて目を逸らす」所以はきっとそこにあるのでしょう。今回の件に限らず、ももこさんも何度か経験をされていると思います。
件の相手の方の反応はしかし、どうやら今までとは「違う」。ももこさんはどこか「確信」めいた気持ちを抱かれている訳ですね。
残念ながら断言は出来ませんが、「偶然」がそう何度も重なる事はない、と思います。変わらずに目線を向けていた相手の男性は某か、ももこさんを意識していた印象はあります。相手もともかく、気になって目が離せず、目を合わせてコミュニケーションを試みた。
SNS、ソーシャルネットワーキングサービス、もまた書き込みやコメント、トラックバックを介したコミュニケーションの為のネット環境ですね。パソコン、スマホ、何れの機械を介したネットの世界、システムが今や世界をすっかり広げている。広大な世界は更に、「今までは」気の迷い、と頭を振って否定して終わってしまう邂逅なり接点の「その先」を設けてしまった。
ここで「ネットのない世界・時代」に存在し、生きるもうひとりの「ももこさん」を想定してみましょう。そちらの世界で件の相手と「目が合った」ところで「その先」の目処は立たず、「その場」で―また同じ機会が訪れない限りは―自然終わりを告げてしまう。美しい印象を残し刻みながらも、如何にも儚げな線香花火は火種が「ぽとり」と落ちた後は何も残らない。ふっと過る残像は「今そこにある現実」では決してありません。
実質、能動的な行動の一切を取れないある意味で歯がゆい立場の「ももこさん」。“彼女”は果たしてネット、SNSで弱々しくも伝手や接点を持つ、ももこさんにたいし何を言い、告げるのか・・・。すこし考えてみて、心の中で響いた“結果”にすなおに従えば良い。と私は思います。自重をそれでも促すのであれば止めれば良いし、後押しの声には勇気を奮い、連絡を取ってみる。
ある調査結果では、交際相手との出会いの切っ掛けとして10人に1人が件のSNSを介しているとの事です。それが多いかすくないか、印象は人夫々としても決してありえない話ではなく、珍しくもない要因とも言えるのではないでしょうか。「前例」に一先ずはももこさんの心も穏やかになれば幸いですが。
さておき「アイコンタクト」の意図を相手の方が実際に、そして既に差し向けている場合、ももこさんの礼儀と心を込めたメッセージがそのまま先方にとっての願ってもないコンタクトにもなり得ますね。「あの日あの場所」での真相解明を皮切りに話に花が咲き、意気投合する。その可能性は低くはないと私は思います。
苦いか甘いか。私には正確な予測など出来はしませんが、本当の「思い出」を創りだす当事者は、ももこさんご自身です。確りと相手を見据え、適切で身のある意思疎通を交わし、感情の籠った温もりのある関係を築いていく。ももこさんの取る行動が、もももさんのこれからを決めていく。
「失恋の痛手」も文字通り痛恨の事実だけれど、ももこさんの今後に活かすべき確かな経験のひとつには違いないでしょう。そして直感です。
「あの日から気になる」ももこさんの意識それ自体を、ひとつの示唆、インスピレーションとして敢えて信じてみる。さまざまな思考と検証を重ねて下した判断と、その行動が今のももこさんの「ベスト」な選択そのものです。
人と人との出会いは天から降るものでも、機械やシステムが自動的にセッティングするものでも当然ありません。先が見えず不確定な揺らめきを見せるからこそ、心も揺れ動きそわそわと落ち着かなくなる。そこにこそ生き生きとした魅力、意味が込められている。
私はそう思います。
「何もしないのがベストか」。
このご質問に関して私自身はベストな選択だと思います。今までこれといった親密なお付き合いもなく、ちょっとした面識がある程度の相手。袖触れ合も、とは言えその関係性は率直に希薄です。大学時代の淡い感覚、記憶の中に留まりどうかするとすっかり忘却の彼方に追いやられていた。そしてある日の事、とある「切っ掛け」によって再会を果たすも、相手を見定める焦点はどちらかと言えばぼんやりとした幻影にも近い。
当時を振り返るに深い後悔も感傷も、ももこさんの心中には取り敢えず見当たらない。そんな経緯、意識がももこさんの文面から感じ取られます。故にこのまま仮に“フェードアウト”に決め込んだところで、然したる傷心もない。何れももこさんのこれからの社会生活、日常の中になし崩しに埋もれていき、二度と掘り起こされる事もない(でしょう)。「思い出」と言うにはちょっと瞬間的な、刹那の交錯です。
「あの日あの時あの場所」で果たした出会い。如何にもロマンチックでドラマのような運命的な巡り合い。男性であれ女性であれ某か憧れ求めるものです。しかし現実は、現実に生きる人々に夫々の価値観や都合に合わせた物語を逐一用意する気の利いた真似など決してせず、ただ、それこそ淡々と時を刻み重ねていく。
とても殺伐とした、しかも私が殊更言うまでもなく確かにある淡泊なありのままの現実。けれども人は人との繋がりを求め、その繋がり、関係に意味を求める存在でもあります。絆、縁。何れも「意味のある連なり」であり繋がりです。
「切っ掛け」、はそもそも相手の方の「目線」に端を発している。目線、もまた人の行動様式にたいする意味付けとしての表現ですね。相手の方の、もももこさんに向けた「目線」には某かの理由があり、少なくともももこさんにとって相手の方との「接触」に連なった。それは所謂“アイコンタクト”にも見えます。“非言語コミュニケーション”の基本と言われるアイコンタクト。逆に言えば人はふいに「目が合うと」合った相手にたいして、全くの初対面の他人でさえ、意識し、思わず狼狽し動揺する。「慌てて目を逸らす」所以はきっとそこにあるのでしょう。今回の件に限らず、ももこさんも何度か経験をされていると思います。
件の相手の方の反応はしかし、どうやら今までとは「違う」。ももこさんはどこか「確信」めいた気持ちを抱かれている訳ですね。
残念ながら断言は出来ませんが、「偶然」がそう何度も重なる事はない、と思います。変わらずに目線を向けていた相手の男性は某か、ももこさんを意識していた印象はあります。相手もともかく、気になって目が離せず、目を合わせてコミュニケーションを試みた。
SNS、ソーシャルネットワーキングサービス、もまた書き込みやコメント、トラックバックを介したコミュニケーションの為のネット環境ですね。パソコン、スマホ、何れの機械を介したネットの世界、システムが今や世界をすっかり広げている。広大な世界は更に、「今までは」気の迷い、と頭を振って否定して終わってしまう邂逅なり接点の「その先」を設けてしまった。
ここで「ネットのない世界・時代」に存在し、生きるもうひとりの「ももこさん」を想定してみましょう。そちらの世界で件の相手と「目が合った」ところで「その先」の目処は立たず、「その場」で―また同じ機会が訪れない限りは―自然終わりを告げてしまう。美しい印象を残し刻みながらも、如何にも儚げな線香花火は火種が「ぽとり」と落ちた後は何も残らない。ふっと過る残像は「今そこにある現実」では決してありません。
実質、能動的な行動の一切を取れないある意味で歯がゆい立場の「ももこさん」。“彼女”は果たしてネット、SNSで弱々しくも伝手や接点を持つ、ももこさんにたいし何を言い、告げるのか・・・。すこし考えてみて、心の中で響いた“結果”にすなおに従えば良い。と私は思います。自重をそれでも促すのであれば止めれば良いし、後押しの声には勇気を奮い、連絡を取ってみる。
ある調査結果では、交際相手との出会いの切っ掛けとして10人に1人が件のSNSを介しているとの事です。それが多いかすくないか、印象は人夫々としても決してありえない話ではなく、珍しくもない要因とも言えるのではないでしょうか。「前例」に一先ずはももこさんの心も穏やかになれば幸いですが。
さておき「アイコンタクト」の意図を相手の方が実際に、そして既に差し向けている場合、ももこさんの礼儀と心を込めたメッセージがそのまま先方にとっての願ってもないコンタクトにもなり得ますね。「あの日あの場所」での真相解明を皮切りに話に花が咲き、意気投合する。その可能性は低くはないと私は思います。
苦いか甘いか。私には正確な予測など出来はしませんが、本当の「思い出」を創りだす当事者は、ももこさんご自身です。確りと相手を見据え、適切で身のある意思疎通を交わし、感情の籠った温もりのある関係を築いていく。ももこさんの取る行動が、もももさんのこれからを決めていく。
「失恋の痛手」も文字通り痛恨の事実だけれど、ももこさんの今後に活かすべき確かな経験のひとつには違いないでしょう。そして直感です。
「あの日から気になる」ももこさんの意識それ自体を、ひとつの示唆、インスピレーションとして敢えて信じてみる。さまざまな思考と検証を重ねて下した判断と、その行動が今のももこさんの「ベスト」な選択そのものです。
人と人との出会いは天から降るものでも、機械やシステムが自動的にセッティングするものでも当然ありません。先が見えず不確定な揺らめきを見せるからこそ、心も揺れ動きそわそわと落ち着かなくなる。そこにこそ生き生きとした魅力、意味が込められている。
私はそう思います。
社会人1年目の23歳です。
昨日友人と別れ帰宅しようと、駅の階段を降りているとどこからか目線を感じました。目線の先を見ると階段の下にいる男性3人組の中の1人がこちらをずっと見ていました。どこかで見たことはあるけれど、誰だかわからず私はすぐに目を逸らしました。池袋駅で帰宅ラッシュだった事もあり、すごい人混みでもうこっちを見ていないだろうと思い、また先程目線があった方を見るとまだこちらを見ていました。『もしかしたら、知り合いかもしれないし会釈だけでもした方がいいかな』と思ったものの、奥手な私は恥ずかしくなってそのまま目を逸らしてそそくさと逃げるように帰ってしまいました。
帰りに電車に乗りながら『どこかで見た事あるけど、誰だったんだろう…』と考えていると、大学時代1年間だけ所属していたサークルの先輩だった事を思い出しました。会った時は、スーツ姿で誰だかすぐにわからなかったけれど、SNSで繋がっているサークルの友人からその先輩のアカウントを探し、飛んでみるとやはり先程目があった先輩でした。サークルの規模が大きかった事と、先輩とは直接サークルの現役の代は被っていなかったため、話した事も名前も知らない状態でした。
あの日から、なぜか先輩の事が気になっています…。
サークルにいた頃は、そんな気持ちなかったのに(^^;ただ見つめられて意識してしまっただけなんでしょうか?もういい歳だし、4年ぶりに見かけただけで相手の事が気になるってのは可笑しな話だなとは思います。
SNSには投稿されてなかったけれど彼女もいるかもしれないし、もしかしたらただ偶然目が会っただけで私の事なんて先輩は覚えてないかもしれません。
失恋の痛手でしばらく恋愛から遠ざかっていたため、この後どのようにすればいいのか。もしかしたら、迷惑かもしれないなど色々考えてしまい、何も動けずにいます。
こんな時みなさんは、どのように行動しますか。それともこの程度の知り合いでは、何もしないのがベストでしょうか。
なお、サークルの友人とは半年前に会いましたが、頻度としては1年から2年に1回会うくらいなので、繋がりも薄いです…