彼女の反応(そしてたくさんへ)
投稿日 | : 2015/10/09 22:11 |
投稿者 | : アインス |
今日の運勢 2025年運勢
Re(No.9) | |
投稿日 | : 2015/10/17 12:56 |
投稿者 | : アインス |
“状況の変化”を受け、私は今、一層の境地を「求め」たいと望んでいる。
つまり私の「欲求」です。
欲求とは聊か奇妙な表現ながら、「自分が」「自分を」欲する、或いは求める。究極的な帰結として主格と目的格が混然一体化した精神的志向のひとつの形だと思います。そして何時しか(恐らくは何時でも)私は自らの欲求の為に「人を求め」てしまう訳です。分を弁えず(つまり棚上げして)「好みの女性」の心と体をまるごと、よりアグレッシブに取り込む。
食べる・・・?等とたまったものでも冗談でもない。それは突飛な筋立ての漫画にも似た拙い夢想に過ぎないけれど、「見立て」としては確かな願望であり欲求として脈々と息づいている。今回の彼女の件で抱く私の赤裸々な「動機」です。
彼女の私への気持ち、感情について現状において勿論、知り得ません。「捉え所・掴み所のない」彼女の態度に私の感情もまた落ち着かず、不安定に揺らいでいる。「かたちが定まらず」自らの取る行動を確り律する自信が持てない。件の「告白」一つ取っても「良く考えた上で口にした」の行為か否か、その正確な判断はつきかねます。少しでも気を緩めると、私の「良心・良識」に無様な綻びがちらほらと垣間見えてしまう(と疑う)。
何の事はない。結局は自分で自分の感情に惑わされ、酔い痴れているだけなのです。実を言うとたくさんのご意見にたいし感謝の念を抱きつつ(とても酷い事に)ちょっとした失望も苦い思いもしました。さもしくも私は私自身の都合に合わせた見解を望んでいたのです。
こうして振り返って俯瞰してみるとその場限りのお祭り気分に浸っている無責任かつ無軌道に浮ついた自分、が良く分かります。たくさんは「祭事」を滞りなく取り仕切る幹事でも主催者でも共催者でもない。飽くまで「回答者」の立場として務めて客観的な意見を訥々と、それも誠実に述べている。
たくさんの立場に根ざした対応は徹頭徹尾一貫していて、そして何より正当です。つまりはある出来事、に直面し人として同じ「人を求め」つつも、「求め方」にそもそも過ちと誤りがあった、という事ですね。改めて情けなく、どうにも「格好の悪かった」自分が恥ずかしい、と。
だからたくさんの「忠告」は一層耳に痛く、身にもつまされ、心を打ちました。結局たくさんは私の様々な気持ちを「分かっていた」。それもご自身の「過去」を通して切実に訴えていた、と思い実感しています。恐らくは思い出したくない内容、出来事までわざわざ持ち出されてまで気持ちを込めて語って頂いて、私はただ申し訳なく思いつつ頭が下がるばかりです。
そんなたくさんの「心意気」を通して、私も自己を愛する気持ちを全うする為にも、「自己責任」を貫き、維持していきたいと思いました。
その自己責任に纏わるある一つのお話。以前に通った地元の自動車教習所での事です。担当した指導員の一人が「免許を取得した後は、全て自己責任だ」と私に向けて言いました。当初は「事故が起こった、起こした時も責任を自らが背負う」という意味として捉えていた私はふとある時、私の「思い違い」、に思い至り気付いたのです。
事故、という言葉、概念について私はその時再考してみました。
辞書には
1.思いがけず生じた悪い出来事。物事の正常な活動・進行を妨げる不慮の事態
2.事柄の発生した理由。わけ。子細
そう記されている。
夫々の意味合いから考えて、殊運転に関する「事故」は“認知と判断と行動”の精度に左右される(と教習所での講義でも触れていましたが)。それら3つの項目、要件は自然その主体、「自己」へと還元されていく。取りも直さず事故の行方、可能性は運転する当事者たる自己に掛かっている。無論事故を起こして良い道理は一切ありません。
それ故、
「事故を起こしても自己責任として諦め、観念する」のではなく「事故を起こさない為に自己責任を課し、戒める」。
当然のそして自明の配慮への自覚が私には実質欠けていた。「間違いをおかし、起こした」後では文字通り後の祭りだし、責任云々の次元から最早逸脱してしまっている。
“運転”はある意味で危険と隣り合わせです。しかし必ずしも事故に繋がる訳ではなく先ずは「安全第一」を旨とする。「楽しく穏やかに」過ごす為に、不測不慮の事態に備え絶えず周囲に目と気を配る。真っ当な「自己責任」の在り方ですね。「交通法規」即ち、“ルールの遵守”は自由で開放的な運転の為に不可欠な土台です。
“見た目には派手”な「スピード狂」は、所詮表面をなぞるだけの浅薄な衝動の発露に過ぎない。飲酒運転は言うまでもありません。何れも生じ得る最悪の事態の理由や子細に責任が伴わなず全く無責任極まりません。
人付き合い(それが男女の如何に関わらず)もまた同じ事、だと。(運転と同じく)確りとした責任を持ちつつ、「後を引かず、後味の良い」交流、交際は理想でありながらも同時に現実で守るべきエチケットです。それをたくさんが、たくさんご自身の真摯に紡ぐ言葉によって私に教えまた諭して頂いた。私は今素直にそう思います。
彼女との今現在に至る関係はともあれ「故あっての事」、です。お互いの事情や理由が積み重なり重なり合って「今」この状況が齎された。行く末を見誤り、私の限度を越えた干渉行為によってもしも“不慮の事態”、つまり一種の「事故」に陥ってしまっては誰の得にもならないし、ただ只管不毛です。
人の「幸い・幸福感」は誰が決めるものでも押し付けるものでもなく、自ずから定めて見做していく謂わば「人生(人生観)」の象徴的観念でもある。彼女もまた同じであり、彼女の人生はどうあれ彼女のだけのもの。
私は「見守る」力などないけれど、黙って私の立場からこの先を「見据えて」いきたいと思います。事情を斟酌した上で「思い切って此方から」、と背中を押す方もまた別にいました。勿論「答え」は一つではないし、正否を含め最終的に自分で決める事、ではあるでしょう。私も今、この瞬間「此方からの連絡」を促す声が蠱惑的に脳裏をちらつきます。
それでも尚、たくさんのお気持ちに触れた今の私は「私の意向」として敢えてたくさんのご意見、を尊重しようと思いを新たにした次第です。そして「口を噤む」時と「口に出す」時、夫々の行動や態度を状況に合わせてよくよく考え判断したい、と。彼女がそうであるように、私自身の「幸い」も一つでもなくこれで終わりでもない。そう思うと少しは心も休まります。
締め括りに去る映画の名コピー「カッコいいとはこういう事さ」、と言いたい所ですが私は未だ残念ながら「カッコいいとはどういう事さ」、と愚図愚図と言い淀んでいる。外見は兎も角として何時になれば本当に「カッコいい」自分になれるのか、どうも頼りなくまた心許ない。せめて「近付き、目指す」心意気を少しでも持ちたいものです。
泥臭い自問自答を繰り返す亀の歩みでも一歩踏み出せば、取り合えず先には進んでいくもの。私は「これからの行き先」について出来るだけ確りと己の目、「自己責任」で見定めて行きます。
たくさんがこうして見ず知らずの私に回答者として、色々と親身に話しかけ、接して頂いた現状に対しても私は嬉しく思います。「人恋しさ」は可笑しな話ですけど、私には異性に限りません。
同性同士でも(勿論、異性に対する気持ちとは異なるのでご安心下さい・笑)血の通った気持ち、感情に触れ居心地の良い温もりを感じます。過去の様々な思い、を確かな経験に変えるたくさんもまた“志”のある「カッコいい」人だと私は思いますよ^^(本当に)。
そうそう言い忘れていたのですが(本当、すみません^^;)別の方のスレで、私に断りを入れた際、に向けた言葉、表現に関しまして私は勿論、「横やり」とは全く思っても感じてもいませんでしたよ。
深い経験に根ざした確りした詳細なアドバイスは相談を持ちかけた方への少なくない励みになった筈ですし(ご本人も言及されていましたし)、そして複数の意見、多様な視点は一層の助けになりますから。
こちらで言い添えておきますね。
何かしら結論が出た折には、またこちらに報告しようと思っています。改めてたくさん、本当に本当に、何度も親身にどうもありがとうございましたm(_ _)m
つまり私の「欲求」です。
欲求とは聊か奇妙な表現ながら、「自分が」「自分を」欲する、或いは求める。究極的な帰結として主格と目的格が混然一体化した精神的志向のひとつの形だと思います。そして何時しか(恐らくは何時でも)私は自らの欲求の為に「人を求め」てしまう訳です。分を弁えず(つまり棚上げして)「好みの女性」の心と体をまるごと、よりアグレッシブに取り込む。
食べる・・・?等とたまったものでも冗談でもない。それは突飛な筋立ての漫画にも似た拙い夢想に過ぎないけれど、「見立て」としては確かな願望であり欲求として脈々と息づいている。今回の彼女の件で抱く私の赤裸々な「動機」です。
彼女の私への気持ち、感情について現状において勿論、知り得ません。「捉え所・掴み所のない」彼女の態度に私の感情もまた落ち着かず、不安定に揺らいでいる。「かたちが定まらず」自らの取る行動を確り律する自信が持てない。件の「告白」一つ取っても「良く考えた上で口にした」の行為か否か、その正確な判断はつきかねます。少しでも気を緩めると、私の「良心・良識」に無様な綻びがちらほらと垣間見えてしまう(と疑う)。
何の事はない。結局は自分で自分の感情に惑わされ、酔い痴れているだけなのです。実を言うとたくさんのご意見にたいし感謝の念を抱きつつ(とても酷い事に)ちょっとした失望も苦い思いもしました。さもしくも私は私自身の都合に合わせた見解を望んでいたのです。
こうして振り返って俯瞰してみるとその場限りのお祭り気分に浸っている無責任かつ無軌道に浮ついた自分、が良く分かります。たくさんは「祭事」を滞りなく取り仕切る幹事でも主催者でも共催者でもない。飽くまで「回答者」の立場として務めて客観的な意見を訥々と、それも誠実に述べている。
たくさんの立場に根ざした対応は徹頭徹尾一貫していて、そして何より正当です。つまりはある出来事、に直面し人として同じ「人を求め」つつも、「求め方」にそもそも過ちと誤りがあった、という事ですね。改めて情けなく、どうにも「格好の悪かった」自分が恥ずかしい、と。
だからたくさんの「忠告」は一層耳に痛く、身にもつまされ、心を打ちました。結局たくさんは私の様々な気持ちを「分かっていた」。それもご自身の「過去」を通して切実に訴えていた、と思い実感しています。恐らくは思い出したくない内容、出来事までわざわざ持ち出されてまで気持ちを込めて語って頂いて、私はただ申し訳なく思いつつ頭が下がるばかりです。
そんなたくさんの「心意気」を通して、私も自己を愛する気持ちを全うする為にも、「自己責任」を貫き、維持していきたいと思いました。
その自己責任に纏わるある一つのお話。以前に通った地元の自動車教習所での事です。担当した指導員の一人が「免許を取得した後は、全て自己責任だ」と私に向けて言いました。当初は「事故が起こった、起こした時も責任を自らが背負う」という意味として捉えていた私はふとある時、私の「思い違い」、に思い至り気付いたのです。
事故、という言葉、概念について私はその時再考してみました。
辞書には
1.思いがけず生じた悪い出来事。物事の正常な活動・進行を妨げる不慮の事態
2.事柄の発生した理由。わけ。子細
そう記されている。
夫々の意味合いから考えて、殊運転に関する「事故」は“認知と判断と行動”の精度に左右される(と教習所での講義でも触れていましたが)。それら3つの項目、要件は自然その主体、「自己」へと還元されていく。取りも直さず事故の行方、可能性は運転する当事者たる自己に掛かっている。無論事故を起こして良い道理は一切ありません。
それ故、
「事故を起こしても自己責任として諦め、観念する」のではなく「事故を起こさない為に自己責任を課し、戒める」。
当然のそして自明の配慮への自覚が私には実質欠けていた。「間違いをおかし、起こした」後では文字通り後の祭りだし、責任云々の次元から最早逸脱してしまっている。
“運転”はある意味で危険と隣り合わせです。しかし必ずしも事故に繋がる訳ではなく先ずは「安全第一」を旨とする。「楽しく穏やかに」過ごす為に、不測不慮の事態に備え絶えず周囲に目と気を配る。真っ当な「自己責任」の在り方ですね。「交通法規」即ち、“ルールの遵守”は自由で開放的な運転の為に不可欠な土台です。
“見た目には派手”な「スピード狂」は、所詮表面をなぞるだけの浅薄な衝動の発露に過ぎない。飲酒運転は言うまでもありません。何れも生じ得る最悪の事態の理由や子細に責任が伴わなず全く無責任極まりません。
人付き合い(それが男女の如何に関わらず)もまた同じ事、だと。(運転と同じく)確りとした責任を持ちつつ、「後を引かず、後味の良い」交流、交際は理想でありながらも同時に現実で守るべきエチケットです。それをたくさんが、たくさんご自身の真摯に紡ぐ言葉によって私に教えまた諭して頂いた。私は今素直にそう思います。
彼女との今現在に至る関係はともあれ「故あっての事」、です。お互いの事情や理由が積み重なり重なり合って「今」この状況が齎された。行く末を見誤り、私の限度を越えた干渉行為によってもしも“不慮の事態”、つまり一種の「事故」に陥ってしまっては誰の得にもならないし、ただ只管不毛です。
人の「幸い・幸福感」は誰が決めるものでも押し付けるものでもなく、自ずから定めて見做していく謂わば「人生(人生観)」の象徴的観念でもある。彼女もまた同じであり、彼女の人生はどうあれ彼女のだけのもの。
私は「見守る」力などないけれど、黙って私の立場からこの先を「見据えて」いきたいと思います。事情を斟酌した上で「思い切って此方から」、と背中を押す方もまた別にいました。勿論「答え」は一つではないし、正否を含め最終的に自分で決める事、ではあるでしょう。私も今、この瞬間「此方からの連絡」を促す声が蠱惑的に脳裏をちらつきます。
それでも尚、たくさんのお気持ちに触れた今の私は「私の意向」として敢えてたくさんのご意見、を尊重しようと思いを新たにした次第です。そして「口を噤む」時と「口に出す」時、夫々の行動や態度を状況に合わせてよくよく考え判断したい、と。彼女がそうであるように、私自身の「幸い」も一つでもなくこれで終わりでもない。そう思うと少しは心も休まります。
締め括りに去る映画の名コピー「カッコいいとはこういう事さ」、と言いたい所ですが私は未だ残念ながら「カッコいいとはどういう事さ」、と愚図愚図と言い淀んでいる。外見は兎も角として何時になれば本当に「カッコいい」自分になれるのか、どうも頼りなくまた心許ない。せめて「近付き、目指す」心意気を少しでも持ちたいものです。
泥臭い自問自答を繰り返す亀の歩みでも一歩踏み出せば、取り合えず先には進んでいくもの。私は「これからの行き先」について出来るだけ確りと己の目、「自己責任」で見定めて行きます。
たくさんがこうして見ず知らずの私に回答者として、色々と親身に話しかけ、接して頂いた現状に対しても私は嬉しく思います。「人恋しさ」は可笑しな話ですけど、私には異性に限りません。
同性同士でも(勿論、異性に対する気持ちとは異なるのでご安心下さい・笑)血の通った気持ち、感情に触れ居心地の良い温もりを感じます。過去の様々な思い、を確かな経験に変えるたくさんもまた“志”のある「カッコいい」人だと私は思いますよ^^(本当に)。
そうそう言い忘れていたのですが(本当、すみません^^;)別の方のスレで、私に断りを入れた際、に向けた言葉、表現に関しまして私は勿論、「横やり」とは全く思っても感じてもいませんでしたよ。
深い経験に根ざした確りした詳細なアドバイスは相談を持ちかけた方への少なくない励みになった筈ですし(ご本人も言及されていましたし)、そして複数の意見、多様な視点は一層の助けになりますから。
こちらで言い添えておきますね。
何かしら結論が出た折には、またこちらに報告しようと思っています。改めてたくさん、本当に本当に、何度も親身にどうもありがとうございましたm(_ _)m
Re(No.8) | |
投稿日 | : 2015/10/17 12:55 |
投稿者 | : アインス |
たくさんこんにちは。いつもありがとうございます^^
お礼を兼ねた返信を綴りましたが結構長くなってしまいました。単なる自己満足に過ぎない内容で勿論無視して構いません。自分の相談事なので、まあ良いかな・・・と敢えて。「綴る事で気分が落ち着く」という効果もありますね。
さておき、今現時点において彼女からの連絡はありません。そして私も連絡を入れていませんしこれから先も彼女に伝えた通り控える積もりです。私の態度へのたくさんの評価、感想とは別に改めて述べるに私は取り立ててカッコよくもないし、何処にでもいる平々凡々たる一介の男です。要するに何の変哲もない。
いえ、どうかすると結構コンプレックス、劣等感に苛まれている。実際に日々を送る中、少なくなく引け目や負い目を感じたりしているんです。堂々とした体格の同性は勿論の事、スタイルの良い整った見栄えの女性に対してもあれこれと複雑な感情が沸いてしまう。
容姿で、それだけで全ての人間性を判断している訳でもそもそも決まる訳でも当然ありません。中身と言いますか性格面を知って意外に思うなり、時には失望もします。その場合は飽くまでもある程度の「親密性」を持って接して初めて明らかになる事態です。分かりやすく手っ取り早い(と思われる)基準、は先ず見た目に集中しがちである事は衆目の一致する所、ですね。
逆に言えば私もまた「見た目」で判断され、理不尽な物言いをされたり、割とストレートに見下され、蔑まされた経験もあります。私に出来たその時のせめてもの「抵抗」なり意地。具体的にはそうですね。・・・例えば「男女に限らず容姿に関する批評、批判は如何なる状況であれ一切口にしない」事だとか。“言われたくない”故に“言いたくない”のです。
あれこれと自分勝手、手前勝手な都合や感情で下世話な品定めしたくはない。人には人夫々の事情とそれに基づく感情と性質がある。豊かな個性と多様性を私は私なりに重んじたいし、自分の意思の及ぶ限り貫きたいと考えています。如何にも偉ぶった表現ながら、私が「人」としてきちんと見てもらいたい、認めてもらいたい。そんな気持ちの裏返しなのだと思います。
「口に出さずとも思っていれば同じ」。
純粋な(そして皮肉にも明け透けな)批評としての観点から見れば残念ながら一理ある考えを踏まえつつ、私という「個人」の良識において私は敢えて口を噤みます。攻撃的な言葉、無遠慮な発言を差し向けられて愉快だとは思えませんし、率直な態度も場合によりけり、だと。
心身が「傷つく」経験、人との関わりにおける様々な確執や軋轢に人並み(以上?)に直面し、私はその都度人並みに悩み苦しんだ。表には出さずとも一人前に悔しくも腹立たしくもありました。沸々とした感情、が私自身の胸中に渦巻き葛藤を続けている。自分自身の存在に対してあれこれと思い煩い挙げ句否定的な心境に陥る。内面に根付いた自己嫌悪も相当に厄介で、煩わしいものです。
同時に自己嫌悪はどこか自己愛を反映している、と何となく感じた事があります。自嘲と憐憫の縺れ、或いは果ての無いループです。まさに「外側」に世界があるように「内側」もまた果てしない世界の拡がりを見せるものですね。
心の世界において幾つもの様相、形態を見せ、そして途轍もない可塑性を連綿と示す。消滅も吸収もされず様々な情緒の襞が絶えず同時多発的、並行的、干渉的にうねうねとくねり奇妙な変化を見せていきます。(反応選択制を用いた機能主義的なアプローチも侭ならず)まるで捉え所がなく「実体」の有無さえ判然としていません。
もやもやとした五里霧中においてひとつ言える事は、個々の「欲求」が夫々の生活環境、様式を支えまた艶やに漲らせていくその有り様です。私はその欲求さえ満足に持ち得なかった。思っていても「口にする事さえ憚られた」。偏に自信なき故に、です。
その「自信のない」自分が初めて彼女と知り合った時、彼女は実に親身で気さくでした。私はそんな彼女との交流が本当に嬉しく楽しかったし、「対等な目線」で接する異性の友人が私にはとても誇らしかった。私のごくささやかな「趣味」に対しても彼女は何かと持ち上げ褒めてくれた。例え適当に話を合わせたお世辞でも(と言うとまた相手の失礼にあたるし素直には受け止めつつ)、私は満たされていました。
「(趣味を介した表現に関して)とても良い感性をお持ちなんですね」
彼女の紡ぐ私への言葉は、恰も私には魔法のような効き目が、ありました。褒められる事、好意的な評価を受ける事は例え幾つになっても嬉しいものです。彼女の言葉に私は幾度となく励まされました。「何の変哲もない話」を楽しみ嗜む。ただそれだけの関係で顔合わせの予定もなかったそんな矢先、思っても願ってもない「機会」がふいに訪れたのです。年の暮れの事でした。
(思った通り素敵な人だな。でもちょっと僕には眩しいくらいだな・・・)
頭皮に沿わせるように小奇麗に髪を纏め、ほっそりとした体躯をシックな黒いコートに包み、ごく控え目なメイクもさりげなく馴染むとてもすっきりとした顔立ちの彼女。如何にも垢抜けて大人びた様子を初めて目の当たりし気付かれないように(気付いていたのかもしれない)目を瞬かせた私の率直な気持ちです。季節は冬の真っ只中。時間も夜を回り、互いの吐く息が止め処なく白く染まる程の寒さすら彼女を前にする私には寧ろ快かった。
宛ら「豆鉄砲を食らった」間の抜けた鳩。それがその時の紛れもない自分だったと思います。漠然と、心中を巡る思いはそのまま「憧れ」であり、胸を擽られるような恋心の類でした。まあお恥ずかしいんですが、この辺が“アイドル”の喩えに繋がっているのでしょうね。その“アイドル”と私は最寄の“ちょっと洒落た”店で食事と歓談をあろうことか“ごく自然”に交わしていた。
確かな現実であるにも関わらず、私はそわそわとして落ち着かずどこか夢心地な気分に酔っていた。ドキドキと無邪気に高揚していた。私は人付き合いの達人では全くありません。異性をリードする特別に洗練された話術に長けていた訳でも当然ない。ただ単純に彼女の精神的なゆとり、気遣いの上で私は舞い上がっていただけなのでした。
既に当時、別に交際されている方が相手にはいたけれど、それでも私にはあまり関係なかった。“脇役”でもスポットライトが照らされるステージの上、は大変楽しいものだからです。私は彼女とのささやかながらも充実した一時を経て、ほんの僅かでも私なりの自信を得ました。
私は(太ってはいませんが)あまり外見に自信がなく、気後れや負い目で相手にも「申し訳なく」思い委縮してしまう。それは有り体に「卑屈」とも言える態度です。彼女の私の気持ちに対する理解の度合いについては見当もつかず、聞いてもいないけれど、彼女の私への態度は首尾一貫して何も変わらなかった。
「そのままの自分」を見ても柔和な笑顔でぱっちりとした目を私に向けて、相変わらず気さくな態度で親しげに私に話しかけて頂いた。彼女の「麗しい」長所特長はその繊細な外見は勿論、いえそれ以上に「心」、だと私はその時実感しました。そしてそれは今も少しも変わらない。
彼女は本当に様々な魅力、「美しさ」美点に溢れていた。だから私は彼女に憧れ、敬った。そして私の手の内から毀れた彼女のこれからの幸せを、それでも祈ったのです。せめて私も心だけはすっきり爽やかでありたかったから。
たくさんが仰るように確かに私も少しは彼女の心の支えになったのかもしれない。その当の私が彼女に「救われた」。(有り難い事に)彼女が私の心を救ったんです。
「彼女に救われ自信を得た」私は兎も角も「自己完結」を果たしてその「想い」をひっそりと閉じ込めた「筈」でした。
しかし「時間の流れ」と共に結局私の心、気持ちも留まりませんでした。
お礼を兼ねた返信を綴りましたが結構長くなってしまいました。単なる自己満足に過ぎない内容で勿論無視して構いません。自分の相談事なので、まあ良いかな・・・と敢えて。「綴る事で気分が落ち着く」という効果もありますね。
さておき、今現時点において彼女からの連絡はありません。そして私も連絡を入れていませんしこれから先も彼女に伝えた通り控える積もりです。私の態度へのたくさんの評価、感想とは別に改めて述べるに私は取り立ててカッコよくもないし、何処にでもいる平々凡々たる一介の男です。要するに何の変哲もない。
いえ、どうかすると結構コンプレックス、劣等感に苛まれている。実際に日々を送る中、少なくなく引け目や負い目を感じたりしているんです。堂々とした体格の同性は勿論の事、スタイルの良い整った見栄えの女性に対してもあれこれと複雑な感情が沸いてしまう。
容姿で、それだけで全ての人間性を判断している訳でもそもそも決まる訳でも当然ありません。中身と言いますか性格面を知って意外に思うなり、時には失望もします。その場合は飽くまでもある程度の「親密性」を持って接して初めて明らかになる事態です。分かりやすく手っ取り早い(と思われる)基準、は先ず見た目に集中しがちである事は衆目の一致する所、ですね。
逆に言えば私もまた「見た目」で判断され、理不尽な物言いをされたり、割とストレートに見下され、蔑まされた経験もあります。私に出来たその時のせめてもの「抵抗」なり意地。具体的にはそうですね。・・・例えば「男女に限らず容姿に関する批評、批判は如何なる状況であれ一切口にしない」事だとか。“言われたくない”故に“言いたくない”のです。
あれこれと自分勝手、手前勝手な都合や感情で下世話な品定めしたくはない。人には人夫々の事情とそれに基づく感情と性質がある。豊かな個性と多様性を私は私なりに重んじたいし、自分の意思の及ぶ限り貫きたいと考えています。如何にも偉ぶった表現ながら、私が「人」としてきちんと見てもらいたい、認めてもらいたい。そんな気持ちの裏返しなのだと思います。
「口に出さずとも思っていれば同じ」。
純粋な(そして皮肉にも明け透けな)批評としての観点から見れば残念ながら一理ある考えを踏まえつつ、私という「個人」の良識において私は敢えて口を噤みます。攻撃的な言葉、無遠慮な発言を差し向けられて愉快だとは思えませんし、率直な態度も場合によりけり、だと。
心身が「傷つく」経験、人との関わりにおける様々な確執や軋轢に人並み(以上?)に直面し、私はその都度人並みに悩み苦しんだ。表には出さずとも一人前に悔しくも腹立たしくもありました。沸々とした感情、が私自身の胸中に渦巻き葛藤を続けている。自分自身の存在に対してあれこれと思い煩い挙げ句否定的な心境に陥る。内面に根付いた自己嫌悪も相当に厄介で、煩わしいものです。
同時に自己嫌悪はどこか自己愛を反映している、と何となく感じた事があります。自嘲と憐憫の縺れ、或いは果ての無いループです。まさに「外側」に世界があるように「内側」もまた果てしない世界の拡がりを見せるものですね。
心の世界において幾つもの様相、形態を見せ、そして途轍もない可塑性を連綿と示す。消滅も吸収もされず様々な情緒の襞が絶えず同時多発的、並行的、干渉的にうねうねとくねり奇妙な変化を見せていきます。(反応選択制を用いた機能主義的なアプローチも侭ならず)まるで捉え所がなく「実体」の有無さえ判然としていません。
もやもやとした五里霧中においてひとつ言える事は、個々の「欲求」が夫々の生活環境、様式を支えまた艶やに漲らせていくその有り様です。私はその欲求さえ満足に持ち得なかった。思っていても「口にする事さえ憚られた」。偏に自信なき故に、です。
その「自信のない」自分が初めて彼女と知り合った時、彼女は実に親身で気さくでした。私はそんな彼女との交流が本当に嬉しく楽しかったし、「対等な目線」で接する異性の友人が私にはとても誇らしかった。私のごくささやかな「趣味」に対しても彼女は何かと持ち上げ褒めてくれた。例え適当に話を合わせたお世辞でも(と言うとまた相手の失礼にあたるし素直には受け止めつつ)、私は満たされていました。
「(趣味を介した表現に関して)とても良い感性をお持ちなんですね」
彼女の紡ぐ私への言葉は、恰も私には魔法のような効き目が、ありました。褒められる事、好意的な評価を受ける事は例え幾つになっても嬉しいものです。彼女の言葉に私は幾度となく励まされました。「何の変哲もない話」を楽しみ嗜む。ただそれだけの関係で顔合わせの予定もなかったそんな矢先、思っても願ってもない「機会」がふいに訪れたのです。年の暮れの事でした。
(思った通り素敵な人だな。でもちょっと僕には眩しいくらいだな・・・)
頭皮に沿わせるように小奇麗に髪を纏め、ほっそりとした体躯をシックな黒いコートに包み、ごく控え目なメイクもさりげなく馴染むとてもすっきりとした顔立ちの彼女。如何にも垢抜けて大人びた様子を初めて目の当たりし気付かれないように(気付いていたのかもしれない)目を瞬かせた私の率直な気持ちです。季節は冬の真っ只中。時間も夜を回り、互いの吐く息が止め処なく白く染まる程の寒さすら彼女を前にする私には寧ろ快かった。
宛ら「豆鉄砲を食らった」間の抜けた鳩。それがその時の紛れもない自分だったと思います。漠然と、心中を巡る思いはそのまま「憧れ」であり、胸を擽られるような恋心の類でした。まあお恥ずかしいんですが、この辺が“アイドル”の喩えに繋がっているのでしょうね。その“アイドル”と私は最寄の“ちょっと洒落た”店で食事と歓談をあろうことか“ごく自然”に交わしていた。
確かな現実であるにも関わらず、私はそわそわとして落ち着かずどこか夢心地な気分に酔っていた。ドキドキと無邪気に高揚していた。私は人付き合いの達人では全くありません。異性をリードする特別に洗練された話術に長けていた訳でも当然ない。ただ単純に彼女の精神的なゆとり、気遣いの上で私は舞い上がっていただけなのでした。
既に当時、別に交際されている方が相手にはいたけれど、それでも私にはあまり関係なかった。“脇役”でもスポットライトが照らされるステージの上、は大変楽しいものだからです。私は彼女とのささやかながらも充実した一時を経て、ほんの僅かでも私なりの自信を得ました。
私は(太ってはいませんが)あまり外見に自信がなく、気後れや負い目で相手にも「申し訳なく」思い委縮してしまう。それは有り体に「卑屈」とも言える態度です。彼女の私の気持ちに対する理解の度合いについては見当もつかず、聞いてもいないけれど、彼女の私への態度は首尾一貫して何も変わらなかった。
「そのままの自分」を見ても柔和な笑顔でぱっちりとした目を私に向けて、相変わらず気さくな態度で親しげに私に話しかけて頂いた。彼女の「麗しい」長所特長はその繊細な外見は勿論、いえそれ以上に「心」、だと私はその時実感しました。そしてそれは今も少しも変わらない。
彼女は本当に様々な魅力、「美しさ」美点に溢れていた。だから私は彼女に憧れ、敬った。そして私の手の内から毀れた彼女のこれからの幸せを、それでも祈ったのです。せめて私も心だけはすっきり爽やかでありたかったから。
たくさんが仰るように確かに私も少しは彼女の心の支えになったのかもしれない。その当の私が彼女に「救われた」。(有り難い事に)彼女が私の心を救ったんです。
「彼女に救われ自信を得た」私は兎も角も「自己完結」を果たしてその「想い」をひっそりと閉じ込めた「筈」でした。
しかし「時間の流れ」と共に結局私の心、気持ちも留まりませんでした。
Re(No.7) | |
投稿日 | : 2015/10/14 18:45 |
投稿者 | : たく |
アインスさん、こんにちは。
いつもながら丁寧な返信をありがとうございます。
彼女に対する想い、そして第4の壁を越えてしまった事への苦悩、
痛いほどに分かります。
告白して疎遠になってしまうなら友達のままが良かったのか?
そのほうが相手へ迷惑を掛けなかったのか?
良く恋愛で議論される命題ですが、
これに関しては、あえて否と言いたいです。
たら、れば、は結果を知っているから思ったこと。
もし、今の状況を知っていなければ、
何度、過去に戻ってやり直しても選択は同じだと思います。(禅問答のようでスミマセン。)
そして、告白をする前は、僅かだとしても、
自分が発した言葉を受け入れてもらえる未来、
彼女と良い結果が訪れる未来を想像していたはずです。
それくらい強い想いを持ってしまっていたと思うんです。
ですから、その事には悔いを残さず「伝えなければ得られなかった事もある。」と
納得してみるのが良いように思います。
きれい事に聞こえるかもしれませんが、
彼女も心は揺れ動いていたことは確かですし、
「現状からの逃避」だとしても、
逃避先としての癒やしを提供できた事実は揺るぎないです。
そして、今の結果がどうあれ、
一時的には彼女が救われたことも確かです。
その事実を胸に・・・
カッコよさ、こころざしの高さを目指すアインスさんにお願いしたいのは、
時がどれだけ経っても、アインスさんからは連絡しないで欲しい。という事です。
ここで、アインスさん側からお伺いを立ててしまうと、
・彼女へ迷惑を掛けないこと(相手の判断に任せること)
・男らしく引き際を弁えること
その2点がガラガラと音を立てて崩れていき、
罪悪感から逃れるためにカッコいい風なことを言っていただけになってしまいます。
自分が出来なかったことをお願いするのは失礼かもしれませんが、
カッコいい男のままでいていただきたいので、
敢えてお願いしてみました。
今回のやりとりで色々な例えや考えを元に返信いただけて大変楽しかったです。
最後に今一度アインスさんへ良い結果が訪れることをお祈りしております。
Re(No.6) | |
投稿日 | : 2015/10/11 18:31 |
投稿者 | : アインス |
>ソーヤーさん
改めましてこんばんは。ソーヤーさんの的確で温かいご意見、深い感謝と共にとても頷けました。
先の方の返信でかなり率直に思う所を綴り、言い切った感はありますからちょっと重複する部分がある場合はご容赦下さい。
偉そう、と謙遜なさっていますが勿論全くそんな事はありません。寧ろ私は身につまされました。行動・・・そうですね。もし色々な柵(おもに彼女の立場だとは思いますが)を乗り越え、踏ん切りがついた時は。そして私に対して何かしら彼女も好意を持っている時は私も勿論、素直に応じていきたい、そう思ってはいます。
少々考えるのは、そもそも家族、家庭とは果たして何か、という事なんです。私事ながら私を慈しみ育ててくれた母と父は所謂「見合い」によって知り合い、そして互いの同意を経て結婚に至り、私と弟(どうでも良いのですが双子です)を生み育て連綿と家庭を営んでいった。
以来色々と衝突も確執も起こりつつも、それでも「家族の体裁」は保たれ、今現在に及んでいます。私は当然独身ですから「夫婦」の気持ち、感情について特に知り得ませんしその機会も殆どない。私のそんな立場から見ても私の母と父の“仲”は悪いとは思えないし寧ろ良好とさえ思えます。端的に息子から見て清々しく、微笑ましい(少々可笑しな表現ですけど)。だから一般に言って「仲睦まじい」関係では、あるようです。
そんな在る時にひょんな事から判明したのですが、母と父、二人の間にはどうもはっきりとした「恋愛感情」、は持ち得なかったらしいのです。双方の感情は専ら「仲間意識」としての連帯感に彩られ、それでいて何の問題も弊害もなかった。
実情を知り特段衝撃も失望も(そもそも実の両親ですので)ないものの、すこし奇妙な感覚には襲われもしました。「そういう関係もあるんだね」・・・と。それだけ人が人を想う気持ちは多様性があり、十把一絡げにも括れない。「仲が良ければ」それで良いとも言える。“大恋愛”の末“大喧嘩”をして別れるケース、事例も皆無とは恐らく言えないでしょうね。
当の彼女、はさて如何なのか・・・と私は両親の有様を介してふと振り返って考えてみました。現代、現在の社会、今の世における男女が相通じ合う価値観、は概ね「恋愛」に連なり繋がるだろう、と。
少なくとも果てしなく「友達・友人」としての意識、観念に基づいた上での結婚、婚姻にはほぼ至らない。そう私は考えていますし、多くの他の方も同様でしょうね。そして彼女と現時点での彼女の伴侶、相手もきっと例外ではない。
「どうぞ、ご自由に。どうぞ、お幸せに」。完全に“関わりのない”私は、ごく普通に簡潔に述べる事でしょう。私の態度反応を責め非難する人も先ずいないでしょう(と、思いますが)。物事は、人の気持ち、感情を含む森羅万象は単純で素朴な方が良い。より「分かりやすい」方が好ましい。私個人としては余りにも複雑怪奇な事態に頭をなるべく悩ませたくはありません。すっきりとした一直線が理想ではあります。
しかし今、話題と言いますか、巷で扱われる所謂「グレーゾーン」、があるんですよね。白でもなくさりとて黒でもない。白かもしれず黒とも言える。
「どっちだよ」、ときつく詰り問い質しても明瞭な答えは中々容易には出ない。それは個人の有様から社会の構造まで、ミクロからマクロまでくまなく席巻する非常に曖昧模糊とした状況であり概念なのでしょう。故に割り切れず煮え切らず、どうかすると何時までも堂々巡りのまま明白な回答、がずるずると先送りされてしまう。
以前ソーヤーさんにも述べた通り、「ぬるま湯」、は楽なんでしょうね。割と「どっちつかず」が都合良く心地良い。「可能性」が残されている限りは私は余り先に進みたくはありません。思い悩み、患う時間、期間が案外楽しい。そんな発想もちょっと矛盾はしていますが、私には事実です。
思惑とは別に母と父の築き紡いだ「家庭」、家族の一員として私達兄弟は存在し、また実在しています。それは紛れもなく最早回避不可能なひとつの「実態」であり、現実です。
両親は互いに対する情、意識に関する白黒を決めず、胡乱としたまま敢えて結論を出さなかった。その一方彼等両親は自らの意思によって齎したその現実を率直に受け止め、受け入れました。だから私は私の二親を、掛け替えのない存在として敬い、また労わる気持ちを持っています。つまり「素直に感謝」をしている。私の感情は結局は私の利己的な感覚に依拠する事は拙くも承知してもいます。どう足掻きもがいた所で「エゴ」には逆らえそうにない。それも生涯に渡って。恐らくは、仕方のない話でしょう。
ソーヤーさんは文中にて「人は狡く卑しい存在」だと言われました。私も異論は何もありません。私が結局指摘される対象として一応の理解に及んでいる為です。
ソーヤーさんは敢えて人のある意味での本性、について「言い切り」ました。この対応、意識は持てるようで中々持てない、と私は思います。そしてご自身の置かれる現状について極めて客観的に把握されている。まあ単純に「凄いなぁ」と、思いまた感銘を受けました。
「ルールの設定は気持ち次第だが、故に自覚的に遵守する」
そもそものソーヤーさんが発したお言葉、発言に私はそれこそ「金属バットで後頭部を思い切り殴られた」衝撃を受けました。「カッコいい」、と、思ったんですね。ソーヤーさんの「潔い理性」に私は憧れた。こういう台詞を何時如何なる状況に関わらず「さらっ」と言える大人になりたい、そう思えたし、明瞭な指針へと繋がりました。
私は特に容姿に恵まれている訳でもありませんけど、それでも「カッコよく」生きてみたい。そんな願望欲求はありますし、色々と試行錯誤、経験を重ねて少しでも近づいていきたいものです。
そのような意味で「自分を大事」にしたいですね。例え結果が如何あれ、「自分は自分だから」と思いたい。
そう望み、願っています。
改めて貴重な示唆、本当にどうもありがとうございました。そしてソーヤーさんの「これから」をもう一度本当に心からお祈り申し上げますm(_ _)m
改めましてこんばんは。ソーヤーさんの的確で温かいご意見、深い感謝と共にとても頷けました。
先の方の返信でかなり率直に思う所を綴り、言い切った感はありますからちょっと重複する部分がある場合はご容赦下さい。
偉そう、と謙遜なさっていますが勿論全くそんな事はありません。寧ろ私は身につまされました。行動・・・そうですね。もし色々な柵(おもに彼女の立場だとは思いますが)を乗り越え、踏ん切りがついた時は。そして私に対して何かしら彼女も好意を持っている時は私も勿論、素直に応じていきたい、そう思ってはいます。
少々考えるのは、そもそも家族、家庭とは果たして何か、という事なんです。私事ながら私を慈しみ育ててくれた母と父は所謂「見合い」によって知り合い、そして互いの同意を経て結婚に至り、私と弟(どうでも良いのですが双子です)を生み育て連綿と家庭を営んでいった。
以来色々と衝突も確執も起こりつつも、それでも「家族の体裁」は保たれ、今現在に及んでいます。私は当然独身ですから「夫婦」の気持ち、感情について特に知り得ませんしその機会も殆どない。私のそんな立場から見ても私の母と父の“仲”は悪いとは思えないし寧ろ良好とさえ思えます。端的に息子から見て清々しく、微笑ましい(少々可笑しな表現ですけど)。だから一般に言って「仲睦まじい」関係では、あるようです。
そんな在る時にひょんな事から判明したのですが、母と父、二人の間にはどうもはっきりとした「恋愛感情」、は持ち得なかったらしいのです。双方の感情は専ら「仲間意識」としての連帯感に彩られ、それでいて何の問題も弊害もなかった。
実情を知り特段衝撃も失望も(そもそも実の両親ですので)ないものの、すこし奇妙な感覚には襲われもしました。「そういう関係もあるんだね」・・・と。それだけ人が人を想う気持ちは多様性があり、十把一絡げにも括れない。「仲が良ければ」それで良いとも言える。“大恋愛”の末“大喧嘩”をして別れるケース、事例も皆無とは恐らく言えないでしょうね。
当の彼女、はさて如何なのか・・・と私は両親の有様を介してふと振り返って考えてみました。現代、現在の社会、今の世における男女が相通じ合う価値観、は概ね「恋愛」に連なり繋がるだろう、と。
少なくとも果てしなく「友達・友人」としての意識、観念に基づいた上での結婚、婚姻にはほぼ至らない。そう私は考えていますし、多くの他の方も同様でしょうね。そして彼女と現時点での彼女の伴侶、相手もきっと例外ではない。
「どうぞ、ご自由に。どうぞ、お幸せに」。完全に“関わりのない”私は、ごく普通に簡潔に述べる事でしょう。私の態度反応を責め非難する人も先ずいないでしょう(と、思いますが)。物事は、人の気持ち、感情を含む森羅万象は単純で素朴な方が良い。より「分かりやすい」方が好ましい。私個人としては余りにも複雑怪奇な事態に頭をなるべく悩ませたくはありません。すっきりとした一直線が理想ではあります。
しかし今、話題と言いますか、巷で扱われる所謂「グレーゾーン」、があるんですよね。白でもなくさりとて黒でもない。白かもしれず黒とも言える。
「どっちだよ」、ときつく詰り問い質しても明瞭な答えは中々容易には出ない。それは個人の有様から社会の構造まで、ミクロからマクロまでくまなく席巻する非常に曖昧模糊とした状況であり概念なのでしょう。故に割り切れず煮え切らず、どうかすると何時までも堂々巡りのまま明白な回答、がずるずると先送りされてしまう。
以前ソーヤーさんにも述べた通り、「ぬるま湯」、は楽なんでしょうね。割と「どっちつかず」が都合良く心地良い。「可能性」が残されている限りは私は余り先に進みたくはありません。思い悩み、患う時間、期間が案外楽しい。そんな発想もちょっと矛盾はしていますが、私には事実です。
思惑とは別に母と父の築き紡いだ「家庭」、家族の一員として私達兄弟は存在し、また実在しています。それは紛れもなく最早回避不可能なひとつの「実態」であり、現実です。
両親は互いに対する情、意識に関する白黒を決めず、胡乱としたまま敢えて結論を出さなかった。その一方彼等両親は自らの意思によって齎したその現実を率直に受け止め、受け入れました。だから私は私の二親を、掛け替えのない存在として敬い、また労わる気持ちを持っています。つまり「素直に感謝」をしている。私の感情は結局は私の利己的な感覚に依拠する事は拙くも承知してもいます。どう足掻きもがいた所で「エゴ」には逆らえそうにない。それも生涯に渡って。恐らくは、仕方のない話でしょう。
ソーヤーさんは文中にて「人は狡く卑しい存在」だと言われました。私も異論は何もありません。私が結局指摘される対象として一応の理解に及んでいる為です。
ソーヤーさんは敢えて人のある意味での本性、について「言い切り」ました。この対応、意識は持てるようで中々持てない、と私は思います。そしてご自身の置かれる現状について極めて客観的に把握されている。まあ単純に「凄いなぁ」と、思いまた感銘を受けました。
「ルールの設定は気持ち次第だが、故に自覚的に遵守する」
そもそものソーヤーさんが発したお言葉、発言に私はそれこそ「金属バットで後頭部を思い切り殴られた」衝撃を受けました。「カッコいい」、と、思ったんですね。ソーヤーさんの「潔い理性」に私は憧れた。こういう台詞を何時如何なる状況に関わらず「さらっ」と言える大人になりたい、そう思えたし、明瞭な指針へと繋がりました。
私は特に容姿に恵まれている訳でもありませんけど、それでも「カッコよく」生きてみたい。そんな願望欲求はありますし、色々と試行錯誤、経験を重ねて少しでも近づいていきたいものです。
そのような意味で「自分を大事」にしたいですね。例え結果が如何あれ、「自分は自分だから」と思いたい。
そう望み、願っています。
改めて貴重な示唆、本当にどうもありがとうございました。そしてソーヤーさんの「これから」をもう一度本当に心からお祈り申し上げますm(_ _)m
Re(No.5) | |
投稿日 | : 2015/10/11 00:37 |
投稿者 | : アインス |
>ソーヤーさんへ
先日は改めて本当にどうもありがとうございました。そしてこちらへのご意見、重ね重ね恐縮です。
本当は続けて返信すべきですが、すこし先の意見を述べた方へのお返事に時間がかかりましたので、また明日、纏めさせて頂きますね。申し訳ありませんm(_ _)m
先日は改めて本当にどうもありがとうございました。そしてこちらへのご意見、重ね重ね恐縮です。
本当は続けて返信すべきですが、すこし先の意見を述べた方へのお返事に時間がかかりましたので、また明日、纏めさせて頂きますね。申し訳ありませんm(_ _)m
Re(No.4) | |
投稿日 | : 2015/10/11 00:32 |
投稿者 | : アインス |
>たくさん
改めましてこんばんは。
細やかなお気遣いと親身で実になる助言、本当にどうもありがとうございます。仰る通り、先ずは一段落着いた形で精神的には比較的安定しています。先方の彼女の仕事、勤務状況や感情面夫々の都合を考慮して、やり取りは一先ず控えています。先方も「しばらく返事は出来ない」と仰っていました。
彼女なりの回答、ですか、何れ明らかになるであろうご本人の率直な気持ちが如何あれ、勿論私は納得はします。私の気持ち、彼女への好意について押し付ける積もりはありません。
私の率直な意見、心情を前提にしまして、たくさんのご意見、とても参考になるし、励みにもなりました。はたして励まされて喜ぶべき事態かどうかは少々微妙でもありますけど^^;そうですね。たくさんのご意見は利己主義的には私には殊更感じませんでした。
その方の家庭環境に一石を投じた原因、として間接的には兎も角、直接的には覚え、はないですね。飽くまで「友人」関係を維持していて私も今の今まで他意はありませんでした。いえ実のところ、本当は「好き」だった。異性として何かしら好意を持ってはいたのだと思います。そんな感情は「表に出さなければ」それで済む話ですよね。つまりは拙くも私なりの弁えです。
ちょっとおかしな例えですけど、所謂「アイドル」、がいますよね。ディスプレイなりモニター越しに映る好みの異性の芸能人に対し魅入るなり憧れるなり、恋心を抱くなり。見方によってはそんな感覚に近いと言えば近い、と思います。「実際」に生じつつも決して「現実」的な感情の類ではない、と。
テレビや映画、映像上の虚像ではなく、コンサートが催される会場では確かにリアルタイムで地続きの繋がりはあります。その場合でも「ステージ」を境界線にした仕切りが疑似的に(何故か現実的な場所でありながら)立ち塞がる。確かそのような現象を「第四の壁」、と見做すと聞いた覚えはあります。端的に言えば「見えない透明の壁」でありつまりスクリーンの一種です。
私のそうした「友情観念」は彼女への密かな想いをうまく遮る「スクリーン」でありディスプレイとしても恐らくは機能していたのでしょう(本当に変な例えなんですけど)。少なくともそう「見立て」る事で私の心中を自分なりに抑え、制御していたのだと思います。だから今まで二回済ませた顔合わせの何れも、相手の事情の如何に関わらず表向きは平静を保てましたし、そう造作もない話でした。
「憧れ」の女優なりアイドルと握手と会話を交わし、サインを貰う。一連の一時的な接触、交流に対し目立った動揺は私は恐らくしません。勿論、「心から嬉しい」気持ちには満たされるし、彼女との実際の交流も偏に楽しかった。今から振り返ると「それはデートの類ではないか」とも思います。相談を持ちかけた方の中にはそう言及する方もいました。当時の彼女が実際どう思っていたのかは、分からない事ですし、今も分かりませんけど。
ともあれ「今まで」は極めて疑似的な範疇に含まれていた(またそれが正当である筈だった)私の感情が思いもよらず相手の方にはっきりと知られ、筒抜けとなった。結果はどうあれ図らずも「現実化」を果たしてしまった訳です。
先方は、どうだったのか。私は聞いてみたいです。私の気持ちに対しある程度知っていた様子も伺えるし、それは今に始まる訳ではなく既に出会って交流を重ねた時点で何かしら考えていたのか。彼女なりの気持ち、感情を抱き隠しつつ、卒なく振舞っていたのか。かりにそうでも「今現在」の家庭環境を第一に据え、飽くまで一線を越えない態度を貫くのであれば、勿論私も異存は何もありません。SNSなりで他の方々と「和気藹々」楽しく交流を重ねたいと思ってはいました。
「普通に、今まで通りで仲良く出来なかったのか」とも言いたい。その方が変に拗れるより余程マシで健全ですし、誰の目にも明らかですからね。でも今現時点では違ってしまった。私は率直な気持ちを伝えてしまったし、向こうも何故か断らず保留している。「待ってほしい」と。私の気持ちを告げた後、SNS,LINE何れの削除を求めましたが未だ応じず、じゃあ何かしら先方も・・・とつい考え込んでしまいます。
そのような意味では私は不本意ながら「人の家庭環境を乱した」本人、と言えなくもなく、中々難しい、と改めて思う次第です。多少強引でも無理に「仕切り直して」元の関係、関わりに戻る事は不可能ではないけれど、気まずく釈然としないひとつのしこりは残るでしょう(その点も仰る通りです)。相手は、もっと割り切れるかもしれませんし、ある意味での強かさ、は(失礼ながら)備えてはいると思います。
先の例えに重ねるに彼女は実際には「女優」でも「アイドル」でもない事は当然です。でも、私にとって「最後まで憧れの」人のままであれば、それはそれで淡くささやかな想いとしてキレイな形で仕舞い込めた筈。他愛ない自己満足は寧ろ自由な夢想に収まって誰の迷惑も及ぼさないし、私だけの世界には違いない、とは。随分子供じみた発想でも、心は誰にも覗かれないし、取り合えず自由です。何を思おうと。
色々と現実と理想の狭間を行き交って勝手に嘆息していますけど、彼女を翻弄したり傷つける事だけは絶対に避けよう、と戒めてはいます。これまでの関係に終止符を打つ、終える事も念頭にそれ故に置いています。
その上でもしも、彼女が何かしらケリなり決着をつけた上で気持ちを差し向けるのであれば、私も不都合はありませんし、拘りもありません。飽くまで「過ぎ去った」過去の出来事として彼女の気持ちを尊重はしたいと。そして私なりの義理も重んじる積もりです。
たくさんの「他人を救う事で」とのご指摘は大変鋭いものですし、私は驚きました。ただもう少し正確に言い直しますと、私は無論、人を救う力はありません。僅かばかりの助力、手助けの真似事、でほんの少しでも私の気持ちに潤いが齎され、多少はまともな整理に勤しみたい。そう思うばかりです。そして「こころざし」のある人間を是非目指したいとも考えていますよ^^
だから他人の気持ちと共に自分の気持ちも大事にしたいと思います。
つらつらと思う所を述べてみました。
改めましてこんばんは。
細やかなお気遣いと親身で実になる助言、本当にどうもありがとうございます。仰る通り、先ずは一段落着いた形で精神的には比較的安定しています。先方の彼女の仕事、勤務状況や感情面夫々の都合を考慮して、やり取りは一先ず控えています。先方も「しばらく返事は出来ない」と仰っていました。
彼女なりの回答、ですか、何れ明らかになるであろうご本人の率直な気持ちが如何あれ、勿論私は納得はします。私の気持ち、彼女への好意について押し付ける積もりはありません。
私の率直な意見、心情を前提にしまして、たくさんのご意見、とても参考になるし、励みにもなりました。はたして励まされて喜ぶべき事態かどうかは少々微妙でもありますけど^^;そうですね。たくさんのご意見は利己主義的には私には殊更感じませんでした。
その方の家庭環境に一石を投じた原因、として間接的には兎も角、直接的には覚え、はないですね。飽くまで「友人」関係を維持していて私も今の今まで他意はありませんでした。いえ実のところ、本当は「好き」だった。異性として何かしら好意を持ってはいたのだと思います。そんな感情は「表に出さなければ」それで済む話ですよね。つまりは拙くも私なりの弁えです。
ちょっとおかしな例えですけど、所謂「アイドル」、がいますよね。ディスプレイなりモニター越しに映る好みの異性の芸能人に対し魅入るなり憧れるなり、恋心を抱くなり。見方によってはそんな感覚に近いと言えば近い、と思います。「実際」に生じつつも決して「現実」的な感情の類ではない、と。
テレビや映画、映像上の虚像ではなく、コンサートが催される会場では確かにリアルタイムで地続きの繋がりはあります。その場合でも「ステージ」を境界線にした仕切りが疑似的に(何故か現実的な場所でありながら)立ち塞がる。確かそのような現象を「第四の壁」、と見做すと聞いた覚えはあります。端的に言えば「見えない透明の壁」でありつまりスクリーンの一種です。
私のそうした「友情観念」は彼女への密かな想いをうまく遮る「スクリーン」でありディスプレイとしても恐らくは機能していたのでしょう(本当に変な例えなんですけど)。少なくともそう「見立て」る事で私の心中を自分なりに抑え、制御していたのだと思います。だから今まで二回済ませた顔合わせの何れも、相手の事情の如何に関わらず表向きは平静を保てましたし、そう造作もない話でした。
「憧れ」の女優なりアイドルと握手と会話を交わし、サインを貰う。一連の一時的な接触、交流に対し目立った動揺は私は恐らくしません。勿論、「心から嬉しい」気持ちには満たされるし、彼女との実際の交流も偏に楽しかった。今から振り返ると「それはデートの類ではないか」とも思います。相談を持ちかけた方の中にはそう言及する方もいました。当時の彼女が実際どう思っていたのかは、分からない事ですし、今も分かりませんけど。
ともあれ「今まで」は極めて疑似的な範疇に含まれていた(またそれが正当である筈だった)私の感情が思いもよらず相手の方にはっきりと知られ、筒抜けとなった。結果はどうあれ図らずも「現実化」を果たしてしまった訳です。
先方は、どうだったのか。私は聞いてみたいです。私の気持ちに対しある程度知っていた様子も伺えるし、それは今に始まる訳ではなく既に出会って交流を重ねた時点で何かしら考えていたのか。彼女なりの気持ち、感情を抱き隠しつつ、卒なく振舞っていたのか。かりにそうでも「今現在」の家庭環境を第一に据え、飽くまで一線を越えない態度を貫くのであれば、勿論私も異存は何もありません。SNSなりで他の方々と「和気藹々」楽しく交流を重ねたいと思ってはいました。
「普通に、今まで通りで仲良く出来なかったのか」とも言いたい。その方が変に拗れるより余程マシで健全ですし、誰の目にも明らかですからね。でも今現時点では違ってしまった。私は率直な気持ちを伝えてしまったし、向こうも何故か断らず保留している。「待ってほしい」と。私の気持ちを告げた後、SNS,LINE何れの削除を求めましたが未だ応じず、じゃあ何かしら先方も・・・とつい考え込んでしまいます。
そのような意味では私は不本意ながら「人の家庭環境を乱した」本人、と言えなくもなく、中々難しい、と改めて思う次第です。多少強引でも無理に「仕切り直して」元の関係、関わりに戻る事は不可能ではないけれど、気まずく釈然としないひとつのしこりは残るでしょう(その点も仰る通りです)。相手は、もっと割り切れるかもしれませんし、ある意味での強かさ、は(失礼ながら)備えてはいると思います。
先の例えに重ねるに彼女は実際には「女優」でも「アイドル」でもない事は当然です。でも、私にとって「最後まで憧れの」人のままであれば、それはそれで淡くささやかな想いとしてキレイな形で仕舞い込めた筈。他愛ない自己満足は寧ろ自由な夢想に収まって誰の迷惑も及ぼさないし、私だけの世界には違いない、とは。随分子供じみた発想でも、心は誰にも覗かれないし、取り合えず自由です。何を思おうと。
色々と現実と理想の狭間を行き交って勝手に嘆息していますけど、彼女を翻弄したり傷つける事だけは絶対に避けよう、と戒めてはいます。これまでの関係に終止符を打つ、終える事も念頭にそれ故に置いています。
その上でもしも、彼女が何かしらケリなり決着をつけた上で気持ちを差し向けるのであれば、私も不都合はありませんし、拘りもありません。飽くまで「過ぎ去った」過去の出来事として彼女の気持ちを尊重はしたいと。そして私なりの義理も重んじる積もりです。
たくさんの「他人を救う事で」とのご指摘は大変鋭いものですし、私は驚きました。ただもう少し正確に言い直しますと、私は無論、人を救う力はありません。僅かばかりの助力、手助けの真似事、でほんの少しでも私の気持ちに潤いが齎され、多少はまともな整理に勤しみたい。そう思うばかりです。そして「こころざし」のある人間を是非目指したいとも考えていますよ^^
だから他人の気持ちと共に自分の気持ちも大事にしたいと思います。
つらつらと思う所を述べてみました。
Re(No.3) | |
投稿日 | : 2015/10/10 20:21 |
投稿者 | : ソーヤー |
アインスさん、こんばんわ。 お久しぶりです(^^)
書き込み拝見させて頂きました、
私が偉そうな事を言える立場ではないという前提で…
やはり今は「待つ」しかないんでしょうね。
それが短期間か長期間なのかは、彼女にしか分かりませんし、
どういう結論を出すのか見守るしかないのでしょうね。
勿論、上の方が書かれた様に、彼女がケジメを付けてアインスさんの元に来た時は、
行動に移すべきですし、それは至極当然の事です。
アインスさんなら、「無謀」と「大胆」の違いは理解されてるはずですから(^^)
私は、人間は狡くて卑しい生き物だと思ってます。
そして、それが当たり前だとも思ってます。
それを少しでも抑える為に、「理性」というものが働くんではないでしょうか?
私は抑えきれず、少し大変な状況ですけど(笑)
ですから、「あわよくば…」と思うのも、男として普通の感情だと思いまし、
行動に出すか、出さないかの問題です。
あまり深く考え込まないで下さいね。(^^)
今は、アインスさんにとって大変ツライ状況かも知れませんが、
ほんの少しでも助言、参考になれば幸いです。
彼女からいい返事が来ると良いですね(^^)
頑張って下さい。心より応援致しております。
書き込み拝見させて頂きました、
私が偉そうな事を言える立場ではないという前提で…
やはり今は「待つ」しかないんでしょうね。
それが短期間か長期間なのかは、彼女にしか分かりませんし、
どういう結論を出すのか見守るしかないのでしょうね。
勿論、上の方が書かれた様に、彼女がケジメを付けてアインスさんの元に来た時は、
行動に移すべきですし、それは至極当然の事です。
アインスさんなら、「無謀」と「大胆」の違いは理解されてるはずですから(^^)
私は、人間は狡くて卑しい生き物だと思ってます。
そして、それが当たり前だとも思ってます。
それを少しでも抑える為に、「理性」というものが働くんではないでしょうか?
私は抑えきれず、少し大変な状況ですけど(笑)
ですから、「あわよくば…」と思うのも、男として普通の感情だと思いまし、
行動に出すか、出さないかの問題です。
あまり深く考え込まないで下さいね。(^^)
今は、アインスさんにとって大変ツライ状況かも知れませんが、
ほんの少しでも助言、参考になれば幸いです。
彼女からいい返事が来ると良いですね(^^)
頑張って下さい。心より応援致しております。
Re(No.2) | |
投稿日 | : 2015/10/10 19:32 |
投稿者 | : アインス |
たくさん、いつもながら丁寧な返信、どうもありがとうございますm(_ _)m別の方の相談についての意見を先に済ませましたが、改めてお返事させて頂きますね。アドバイスと相談を同時に、という行為も自らの意向とは言え中々慣れないものです(苦笑)。
それでは後ほど。
それでは後ほど。
Re(No.1) | |
投稿日 | : 2015/10/10 12:33 |
投稿者 | : たく |
アインスさん、こんにちは。
相手の方から連絡が来て良かったですね。
短期的には一つの結論が出たので、少しは気持ちが軽くなったのではないですか?
「ルールは気持ち次第で破れるものだが、守ってこその自由。」
正論とはいえ、何か響く言葉ですね。
そして、それに共感できるアインスさんは"こころざし"が高い方だと感じました。
ちょっと利己主義的で恐縮なのですが、
一方で、彼女の家庭問題がアインスさんに起因しているのでなければ、
離縁後に歩み寄るのはルール違反ではない、とも思います。
そして、彼女がキッパリと離縁するまで関係を絶つのであれば、
離縁後の意思表示をすることも問題無かったと思います。
と言いますのも、僕の勝手な解釈ですが、
自分が起こした行動は、必ず(業のような)何かの責任を背負うことになると思っていて、
例えば、彼女が離縁することになった場合、
「何かあった時には離縁まで行う彼女」という人を作り出しますし、
万が一、離縁した後の新しい環境に不満が出た場合、
新しい環境へのキッカケとなったアインスさんも含めて不満に感じる可能性もあります。
因果応報、それなりのリスクを背負うわけですから、
ある程度のケジメ(今回であれば離婚届)さえついたのであれば、
「自分の」気持ちを大事にすることも問題無いと(個人的には)思います。
確かに他人への迷惑を顧みず、
自分の気持ちだけを押し通すのは「もってのほか」だと思いますが、
義理を通した上であれば、自分の気持ちを大切にすることも大切だと思います。
自分も掲示板へコメントするような性格なので親近感を感じたのですが、
アインスさんは他人を救ってあげることで自分が救われる性格ではないですか?
自分はこの性格が好きなのですが、世間一般的には少し気をつける必要があるようです。
あまりにも犠牲的になると、そういう人とばかり繋がるようで・・・
とにかく、アインスさんがひとまず落ち着いたようで安心しました。
実直に生きているアインスさんへ温かいエピソードが訪れることを切にお祈りしております。
※ちなみに男女の友情ですが、
1度でも恋愛対象になると感じた女性とは難しいと個人的には思います。
関係にヒビが入らないよう感情を理性で抑えているだけ・・・のような気がするので、
何かきっかけがあれば崩れてしまうと思うからです。
前回、親身に対応して下さった方には改めてお礼申し上げますm(_ _)mお見受けするに丁寧な助言を重ねつつ、お悩み事を此方に寄せていますがその望み、願いの成就をこちらから申し上げておきます。
また加えてここでたくさんにまた一言申し上げますが、ご覧になって頂ければ幸いです。
私事ながら、別のスレを通して私の抱えている悩み事、に関して丁寧な助言を頂きまして大変感謝しています。色々と過分な評価をまた頂きまして恐縮もしています。勿論私はたくさんの仰るような出来た人間ではありませんし、憧れる対象など尚もっての外、ですが同時に素直に嬉しくも思います。本当にどうも、ありがとうございます^^
さて本題に入りますと
LINE等を通して交流を重ね、会う約束を取り付けた相手である彼女から連絡が来ました。「沈黙」を続けていた理由は実際仕事の関係で忙しいという事と、他にはやはり家庭にも問題があるとの事。多分実家ではなく、結婚した先で今の旦那さんとの間に起こっていると思います。様々な意味で気持ちも揺らいでいるそうです。
事情はさておき、私は彼女に「やり取りを重ねると、女性として意識してしまう」と、そのまま率直に伝えました。一般に考えてそれは告白の部類に入るでしょう。寧ろ告白行為であると意識はしました。
彼女の返事は「気持ちにゆとりはないから、今急にはお返事できませんけれど、熟考させて欲しい」との事。
状況から鑑みて断ると思ったのですが、連絡先もそのままでどうも嫌ってはいない模様。恐らく最初から私の気持ちについてある程度了解していた節はあります。伴侶を差し置いて不義理な態度を取る積もりもなさそうです。
私は「事情は分かりました。状況が落ち着かれて心身の調子が落ち着くまで連絡を控えます」と返しました。二人で会う約束は一先ず中止、という事になりました。当然だとは思いますし、どうあれ彼女から反応があったので寧ろ気は楽にはなりました。
現在までの実態、それに伴う自分自身の対応と彼女の反応は率直に申し上げて以上になります。
そして改めてたくさんの助言(一連の出来事の後に頂きました)、に目を通すに「確かに」と頷けました。仰る通り彼女の立場、感情に基づいた意図、についての懸念も払拭は出来ません。
「狡い」、と本当に思うのは彼女と彼女の気持ち、ではなく結局私自身の態度だとは思います。どうしても「あわよくば」そんな気持ちが過ってしまう。
良くは、勿論ないですね。もう自分の気持ちについてはっきり述べてしまったけれど、これ以上何も言わずに済ませよう、と思ってはいます。この掲示板の他、知人友人にも打ち明け、意見を聞いたところ異口同音に色よい返事はありませんでした。有り体に正論ですし、故に反論の余地もない。
大変に心許なくはありますが、男である以上に人としての節度はやはり守るべきですね。他のスレである方が述べた一言があります。
「ルールは気持ち次第で破れるものだが、守ってこその自由」
その通りだと、私も痛感しましたしよくよく身にもつまされました。
「人の気持ちを大事にする」当然の事です。でも「人」は何時しか「自分」、自分自身にすり替わり置き換えられてしまう。すこし気を緩めると直ぐに利己的な感情に振り回される。特に私はそうです。そのような移ろいやすい感情に惑わされず、己を律する弁え、を私は何時いかなる時も持ちたい。
私の目下の願望であり理想です。理想故の困難、壁にこれからも私は惑い煩わされると思います。開き直りではなく私のそのままの本音であり本心です。
先行きはどうあれ、彼女を責め、非難する積もりは一切ありません。ただ「異性同士の友情」を念頭に置く関係の維持は中々難しい、とも思っています。
取り留めのない話、失礼しました。