
投稿日 | : 2013/12/11 20:41 |
投稿者 | : ファン |
都内男子校に通っているのですが、女性の方とお話させて頂く機会がほとんどないので恋愛が出来ません。女性の方と知り合う機会をつくるにはどうすればよいのでしょうか?




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投稿日 | : 2013/12/13 22:20 |
投稿者 | : ファン |
ご丁寧な回答、ありがとうございました。全くその通りだと思いました。恋はしようと思ってするものではないですよね。恋がしたいというのは考えてみれば動機が不順ですからね。その人の人間性をみて惚れることのできる人になりたいです。
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投稿日 | : 2013/12/13 17:22 |
投稿者 | : 真弦 |
ファンさん、こんにちは。
大学へ行って、社会人になって、働きに出て……
将来には出逢いの可能性はいっぱいあると思いますよ。
どうしても今恋がしたいんだ、女性との接触をもちたいんだというなら、
習い事を始めてみるとかジムなどに通い始めてみるとか、
方法はないわけではありません。
でも、これは私もたくさんケースを見てきたんだけれど、
「出逢い」を求めることばかりを意識して何か行動を起こしても、
思いどおりにいかないことのほうが多いんです。
なぜかというと、「恋がしたい」という思いが強い時は、
ある程度、「相手は誰でもいい」心の状態になってるからなんです。
人間の直感って侮れないもので、ただ「出逢い」を求めてる人には、
「この人、要するに誰でもいいんだ」というのがピンときてしまって、
本当に恋したり愛したりできる人は遠ざかってしまうし、
ひっかかってきてもそれは「遊びたい」だけの人ということがほとんどです。
これじゃ満足のいく恋愛はできないと思わない?
それにね、「出逢い」ってけっこう何気ないところに転がっているもんです。
ある日何気なしに買い物に入ったコンビニのなかかもしれない。
いつもの通学路ですれ違った誰かかもしれない。
私も、今の恋と出逢ったのは、全然出逢いを意識していないようなところでした。
まさかこの人に恋をするなんて思ってもいなかったような人が相手でした。
そして、心の中に、それまで「とにかく彼氏がほしい」とか、
「誰でもいいから恋したい、愛してほしい」とかひしめいていた気持ちが、
もうほとんどなくなっている時がタイミングでした。
「絞首刑に定められた人は、溺れ死ぬことはない」
私の住んでいる国にはこんなおかしな諺があるのですが、
恋の出逢いについても同じことで、
出逢うべきならどんなに避けようとしても出逢うものだし、
出逢わないべきならどんなに求めても出逢わないのです。
シェイクスピアもハムレットで云っています、
「くるべきものは、今日だろうが、明日だろうが、必ず来るものだ」。
だけど、だからといって「何もかも無駄だ」って全部投げ出して、
何もしないでいればいいかというと、そうじゃないんですね。
母がよく云うんですが、
「無我夢中に毎日を必死に生きている人は、その人だけの魅力で輝いている。
その魅力の光を、運命のパートナーは見付けてやってくる」。
つまり、勉強でも、仕事でも、遊びでも、
現在自分がしていることを全身全霊をもって集中してすること、
毎日を精一杯力強く生きることで「個性」が輝いてくるというんですね。
いわゆる、今よくそこらで云われている「自分磨き」というやつです。
この道は、時間はかかるけれど、やってくる出逢い…“ご縁”は、確かです。
てっとり早く相手を見つけようと思えばできてしまう世の中ですが、
私は出来れば、そういう脆くて儚い関係の中で喉の渇きを増すよりも、
根気強く大地に根をおろして、素晴らしい本当のご縁をつかんでほしいと思います。
長々と書いちゃいましたが、どうぞご参考までに。
大学へ行って、社会人になって、働きに出て……
将来には出逢いの可能性はいっぱいあると思いますよ。
どうしても今恋がしたいんだ、女性との接触をもちたいんだというなら、
習い事を始めてみるとかジムなどに通い始めてみるとか、
方法はないわけではありません。
でも、これは私もたくさんケースを見てきたんだけれど、
「出逢い」を求めることばかりを意識して何か行動を起こしても、
思いどおりにいかないことのほうが多いんです。
なぜかというと、「恋がしたい」という思いが強い時は、
ある程度、「相手は誰でもいい」心の状態になってるからなんです。
人間の直感って侮れないもので、ただ「出逢い」を求めてる人には、
「この人、要するに誰でもいいんだ」というのがピンときてしまって、
本当に恋したり愛したりできる人は遠ざかってしまうし、
ひっかかってきてもそれは「遊びたい」だけの人ということがほとんどです。
これじゃ満足のいく恋愛はできないと思わない?
それにね、「出逢い」ってけっこう何気ないところに転がっているもんです。
ある日何気なしに買い物に入ったコンビニのなかかもしれない。
いつもの通学路ですれ違った誰かかもしれない。
私も、今の恋と出逢ったのは、全然出逢いを意識していないようなところでした。
まさかこの人に恋をするなんて思ってもいなかったような人が相手でした。
そして、心の中に、それまで「とにかく彼氏がほしい」とか、
「誰でもいいから恋したい、愛してほしい」とかひしめいていた気持ちが、
もうほとんどなくなっている時がタイミングでした。
「絞首刑に定められた人は、溺れ死ぬことはない」
私の住んでいる国にはこんなおかしな諺があるのですが、
恋の出逢いについても同じことで、
出逢うべきならどんなに避けようとしても出逢うものだし、
出逢わないべきならどんなに求めても出逢わないのです。
シェイクスピアもハムレットで云っています、
「くるべきものは、今日だろうが、明日だろうが、必ず来るものだ」。
だけど、だからといって「何もかも無駄だ」って全部投げ出して、
何もしないでいればいいかというと、そうじゃないんですね。
母がよく云うんですが、
「無我夢中に毎日を必死に生きている人は、その人だけの魅力で輝いている。
その魅力の光を、運命のパートナーは見付けてやってくる」。
つまり、勉強でも、仕事でも、遊びでも、
現在自分がしていることを全身全霊をもって集中してすること、
毎日を精一杯力強く生きることで「個性」が輝いてくるというんですね。
いわゆる、今よくそこらで云われている「自分磨き」というやつです。
この道は、時間はかかるけれど、やってくる出逢い…“ご縁”は、確かです。
てっとり早く相手を見つけようと思えばできてしまう世の中ですが、
私は出来れば、そういう脆くて儚い関係の中で喉の渇きを増すよりも、
根気強く大地に根をおろして、素晴らしい本当のご縁をつかんでほしいと思います。
長々と書いちゃいましたが、どうぞご参考までに。